投稿者「omaeseiji」のアーカイブ

ポスト3・11〜その6〜

 三・一一は、私たちの生の枠組み《パラダイム》に変化を求めています。その具体的な中身はわかりませんが、それは、きっと人間くさいものになるはずです。

 原発が存続するにしろ、廃止されるにしろ、これまでのように、無条件な《豊かさ》は許されません。いずれにしろ、そこに求められているのは、人間が人間らしく暮せる社会、持続可能な社会です。

 近代は、《豊かさ》を実現しました。しかし、最初から十分に物を持っていたわけではありません。だから、もっと持ちたいと思っただろうし、手に入れた分だけそれを味わいたいと思ったことでしょう。でも、もう十分たくさんの物を持つようになったのだから、たくさん持っていることを誇るのではなく、今度はその物の使い方を考えることにしましょう、ということでしょう。

 そこで浮上してくるのが「人間」という視点です。私たちは、これから人間らしく生きるために物をよりよく使うことを考えていかなければなりません。もし原発を存続させるなら、その「物」の中には、当然原発も含まれています。

 しかし、現実問題として、こうした変化は簡単には起こりません。何かきっかけが要ります。それこそが三・一一なのではないでしょうか。

 三・一一を悲劇の代名詞だけにしてはなりません。私たちの新しい一歩はそこから始まったのだ、三・一一という日を境にして世界のあり方が大きく変わったのだ、と後の歴史が語るような日にすべきではないでしょうか。

ポスト3・11〜その5〜

 三・一一以前、無垢《むく》な《豊かさ》の中で、原発は稼働していました。ここでいう「無垢」とは、原発がそれほど危険なものだと知らなかったという意味です。もしかしたら、それは知らないフリをしていただけかもしれませんが、少なくともそうしたフリをすることができた幸せな(あるいは不幸せな)時代だったといえます。

 三・一一以後はそういうわけにはいきません。もし原発が存続するなら、私たちは、社会的な有益性のために犠牲にしているものがあることをわかった上で、《豊かさ》を享受しなければなりません。フクシマという十字架を背負うことなく、原発を利用し続けることなどできないのです。

 原発を廃止しようとするなら、よけいに、《豊かさ》の変化は避けがたい問題として浮上してきます。

 これまでの《豊かさ》は、大量生産・大量消費による、いわば量としての《豊かさ》でした。しかし、それを支えてきた原発をなくすというのですから、それを質としての《豊かさ》に変える必要があります。

 これは言うほど簡単なことではありません。依然、経済成長がよいことだと信じられています(進歩主義)。グローバリゼーションは、世界をますます資本主義に染めていきます。これらはみな、量としての《豊かさ》です。その中で、質としての《豊かさ》への転換を求めるのは、《貧しさ》への回帰と見なされるかもしれません。しかし、それが不可能なら、原発は廃止できないということです。

ポスト3・11〜その4〜

 ここまで、原発が安全で安価な電力を得る手段かどうかを考えてきました。そこから言えることは、「原発は安全とは言い切れない」ということ(その2)と「原発は安いとは言い切れない」ということ(その3)でしかありません。

 ただ、安全だと言い切れないなら、原発は廃止すべきだ、というのは急ぎすぎです。

 たとえば、自動車によって、毎年多くの死傷者が出ています。しかし、自動車を廃止しようという話はなぜか出てきません。それは、自動車が有益だからです。

 私たちが使っている道具に安全なものはありません。鉛筆だって、指に刺さってケガをします。そうした危険性と有用性を比較衡量した上で、有用性の方が優っているものを私たちは道具として使っています。

 では、原発はどうでしょう?

 その答えが立場によって異なるからこそ、原発は問題になっているのです。ここでは、一つ一つの立場を検証していくことはしませんが、危険性と有用性の比較衡量なしに、原発問題は論じえないとだけいっておきましょう。だから、有用だからと言いつのる意見も、逆に危険だからと言いつのる意見も、現実問題として説得力をもちません。

 近代は、今を否定することで進歩してきました(進歩史観)。私たちは、今原発が当たり前にあることを否定し、前に進まなければなりません。存続するとしても、廃止するとしても、そこには新しい私たちの姿があるはずです。

ポスト3・11〜その3〜

 原発の発電コストは安いといわれてきました。

 しかし、そこにはさまざまなコストが含まれていませんでした。研究開発費、立地対策費(そもそもそれが必要なところに問題があるわけですが)、いざ事故が起こったときの賠償費など、都合の悪い部分が省かれていました。

 事故以来、いろいろな試算がなされていますが、結論がまちまちなので、結局原発は安いのかどうかわかりません。しかし、それこそが正しい情報のあり方なのです。情報は、立場によって、その色合いをまったく変えます。だから、受けとる側もそれをわかった上で受けとらなければなりません。にもかかわらず、情報が中立で客観的なものであるかのように出されたり、それをそのまま受けとってしまったり……インターネット全盛の時代にある私たちは、これまで以上に情報の出し方、受けとり方に注意を払わねばなりません(メディア・リテラシー)。

 ただ問題は、そもそも今回のような事故を金銭に換算できるのか、ということです。賠償額をいくら高く見積もっても、日本全体に及ぶ(あるいはその外側にまで広がる)放射能の影響はもちろん、人の生命《いのち》や思いなどは決して金銭に換算しきれません。そうした都合の悪い部分を排除することは、(計算できないのですから)ある意味で合理的ではありますが、ものごとに対する全体的な視野がないといえます。こうした態度は近代合理主義と呼ばれ、近代(特に科学)の特徴的な思考方法です。

ポスト3・11〜その2〜

 科学は蓋然的なものです。科学で語られていることは、一〇〇%正しいことではなく、一〇〇%近く正しい(と思われている)ことにすぎません。

 「原発は安全だ」といっても、それは確率の問題でしかありません。保険会社の計算では二千年に一度、電力会社ですら、一千万年に一度、事故が起こると考えていました。実は、福島原発事故当時、日本には五四基の原発があり、保険会社の確率で考えると、三九年に一回という確率で事故が起こる計算になっていました。

 だから、事故は、たまたま起こったのではなく、いつか起こるものが起こったにすぎません。原発が科学技術の産物である以上、どんなに安全対策をしても、それは避けられないものだったのです。

 にもかかわらず、「原発は安全だ」と思い込んでいたのなら、それは誰の責任なのでしょうか。

 近代のように人間=主体性と考えれば、そう思い込んだ人が一番悪いといえます。しかし、「知らなかったおまえが悪い」と言われても、原発などという非日常的なことに詳しい人はそういませんから、原発を建設する際に正しい知識・情報を伝えなかった者の責任は軽くないでしょう。

 はっきりいえることは、原発を建設するために「安全だ」と思い込ませたかったり思い込みたかったりする人たちがいたということと、それはけっして他人事《ひとごと》ではないということです。日本全体が「原発は安全だ」ということにしたから、建設されたのですから。

ポスト3・11〜その1〜

 「ポスト3・11」を直訳すると、「3・11以後」になります。

 2011年3月11日、東日本大震災は起こりました。多くの人の命が地震や津波で奪われ、福島第一原発で未曽有《みぞう》の事故が起こりました。特に原発事故は、事故自体が終息したとしても、その影響が今後ずっと続きます。

 その意味で、3・11以後を語る上で避けられないのが、原発の存続問題です。本書はその是非を語る立場にはありませんから、そのつもりはありませんが、本書に登場するさまざまな概念を使ってできるかぎり考察してみましょう。

 まず、存続を認めるにしろ、認めないにしろ、3・11以前と以後では原発を巡る枠組み《パラダイム》自体が変わるはずです。

 ドイツでは、フクシマをきっかけに22年までに原発を廃止することを決めました。日本が今後どうするかはまだわかりませんが、もし存続するにしても、3・11以前と同じ論理が通用するとは思えません。

 かつて、石炭や石油という化石燃料の枯渇が叫ばれていました。今では、人間の産業活動に伴う二酸化炭素の排出が問題視されています(それが、地球を温暖化させるといわれていますから)。原子力は、そうした心配の少ないエネルギーとして注目されていました。

 原発は、安全で(!)安価な電力を手に入れる手段だったのです。

 でも、それは本当なのでしょうか?

第8回…時代区分としての「近代」

 当コラムは、今回を一旦最終回とします。
 そもそも、このコラムは、明治書院刊『入試評論文読解のキーワード300』を改訂するにあたって、その改訂に役立てるために企画されたものです。ただ、『キーワード300』は高校生向けの本ですが、このコラムは高校の先生向けに書かれました。これ以上続けると、本来の改訂自体が滞りますので、今回をもって一旦終了します。
 改訂作業が終了し、「学びネットワーク」の研修会が軌道に乗りましたら、その内容の報告を込めて、また続けたいと思います。
 最終回は、ある意味、原点に戻って「近代」について考えました。正直言って、内容的にあまり濃いとはいえない内容になっています。最終回なので、突っ込みすぎると、紙数がまったく足らなくなり、内容的にまとまりがなくなると思ったからです。と、いいわけさせていただきます。
 今回も、今までどおり、本文と注を別々にアップします。印刷して二つを並行してお読みいただくか、パソコン上で二つのPDFを横に並べてお読みいただくことをお奨めします。

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【本文】

【脚注】

第7回…豊かさの果てに……(後編)

 「豊かさ」について考える最終回です。
 今回は、「一元性」をめぐる話題です。国家やグローバリゼーション、資本主義などと絡ませながら語る予定でしたが、構想が壮大すぎて紙数に収まらないことがわかってしまい、内容的にかなりコンパクトなものになってしまいました。ただ、個人的には、『キーワード300』の改訂に相当ヒントになりました。
 今回も脚注に力を入れるつもりはなかったのですが、本文の紙数を押さえるために量が多くなってしまいました。よろしければ、脚注もお楽しみください。今までどおり、本文と注を別々にアップします。印刷して二つを並行してお読みいただくか、パソコン上で二つのPDFを横に並べてお読みいただくことをお奨めします。

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【脚注】

第6回…豊かさの果てに……(中編)

 「豊かさ」について考える第2回です。3回シリーズになってしまいました。
 今回は、「主体性」をめぐる話題です。テーマとして難しすぎて、自分の勉強不足、考察不足を痛感しました。ぎりぎりまで原稿を差し替えて、明治書院の方には迷惑をかけました。
 次回は、国家やグローバリゼーション、資本主義などに言及していく予定です。
 今回は脚注に力を入れるつもりはなかったのですが、けっこうがんばってしまいました。よろしければ、脚注もお楽しみください。今までどおり、本文と注を別々にアップします。印刷して二つを並行してお読みいただくか、パソコン上で二つのPDFを横に並べてお読みいただくことをお奨めします。

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第5回…豊かさの果てに……(前編)

 これまで無反省に使ってきた「豊かさ」について考えてみました。
 以前から「切り離し/つながり」という言葉をキーワードとして使ってきましたが、最近は、その前提として「貧しさ/豊かさ」という言葉をキーワードとして使っています。現代を語る上で決して無視できない術語だと思います。
 今回は、その総論ということで、次回(もしかしたら3回シリーズになるかもしれません)は、もっと具体的に語る各論ということにします。
 今回は、かなり脚注に力を入れています。ぜひ脚注をお楽しみください。今までどおり、本文と注を別々にアップします。印刷して二つを並行してお読みいただくか、パソコン上で二つのPDFを横に並べてお読みいただくことをお奨めします。

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