ポスト3・11〜その5〜

 三・一一以前、無垢《むく》な《豊かさ》の中で、原発は稼働していました。ここでいう「無垢」とは、原発がそれほど危険なものだと知らなかったという意味です。もしかしたら、それは知らないフリをしていただけかもしれませんが、少なくともそうしたフリをすることができた幸せな(あるいは不幸せな)時代だったといえます。

 三・一一以後はそういうわけにはいきません。もし原発が存続するなら、私たちは、社会的な有益性のために犠牲にしているものがあることをわかった上で、《豊かさ》を享受しなければなりません。フクシマという十字架を背負うことなく、原発を利用し続けることなどできないのです。

 原発を廃止しようとするなら、よけいに、《豊かさ》の変化は避けがたい問題として浮上してきます。

 これまでの《豊かさ》は、大量生産・大量消費による、いわば量としての《豊かさ》でした。しかし、それを支えてきた原発をなくすというのですから、それを質としての《豊かさ》に変える必要があります。

 これは言うほど簡単なことではありません。依然、経済成長がよいことだと信じられています(進歩主義)。グローバリゼーションは、世界をますます資本主義に染めていきます。これらはみな、量としての《豊かさ》です。その中で、質としての《豊かさ》への転換を求めるのは、《貧しさ》への回帰と見なされるかもしれません。しかし、それが不可能なら、原発は廃止できないということです。