三・一一は、私たちの生の枠組み《パラダイム》に変化を求めています。その具体的な中身はわかりませんが、それは、きっと人間くさいものになるはずです。
原発が存続するにしろ、廃止されるにしろ、これまでのように、無条件な《豊かさ》は許されません。いずれにしろ、そこに求められているのは、人間が人間らしく暮せる社会、持続可能な社会です。
近代は、《豊かさ》を実現しました。しかし、最初から十分に物を持っていたわけではありません。だから、もっと持ちたいと思っただろうし、手に入れた分だけそれを味わいたいと思ったことでしょう。でも、もう十分たくさんの物を持つようになったのだから、たくさん持っていることを誇るのではなく、今度はその物の使い方を考えることにしましょう、ということでしょう。
そこで浮上してくるのが「人間」という視点です。私たちは、これから人間らしく生きるために物をよりよく使うことを考えていかなければなりません。もし原発を存続させるなら、その「物」の中には、当然原発も含まれています。
しかし、現実問題として、こうした変化は簡単には起こりません。何かきっかけが要ります。それこそが三・一一なのではないでしょうか。
三・一一を悲劇の代名詞だけにしてはなりません。私たちの新しい一歩はそこから始まったのだ、三・一一という日を境にして世界のあり方が大きく変わったのだ、と後の歴史が語るような日にすべきではないでしょうか。